10月のみ言葉 と 意向 宗教科 納富 幸夫
この聖句でイエス様が言われる「わたしの愛にとどまる」とは、一体、どのようなことなのでしょうか。フランシスコ会訳注では「わたしの愛に」ではなく、「わたしの内にある愛に」とあります。他にも「内にある」ということばは何回か出てきますが、このことばは、一体どのような意味を持つのでしょう。
ある時、誘惑に負け、その知性も精神も堕落してしまった1人の男性がいました。しかしその男性には、良い友人がいました。彼はその友人によって救い出され、その後も、その友人との交わりを続けることで、正しい道を歩み続けることができました。男性が再び、自分の弱さに負け、かつての誘惑に負けてしまうおそれも充分にありましたが、常に友人の強さに触れることによって、救われていきました。
「悪や低俗なものに打ち勝つには、いつも素晴らしいものに触れていることが必要である。」とよく世間でも言われています。今、聖人と呼ばれている多くの人達も、かつて、我が身に誘惑が起きた時、そのほとんどが、十字架のイエス様のもとに駆け寄ったと聞いています。イエス様の生涯は、常に神との交わりにあったといえます。イエス様は、 幾度も神との交わりを求めて退かれ、一人で祈っておられました。イエス様が常に神の中におられたことは、疑うことのない事実です。ですから私たちは、いつもイエス様との交わりを続けることこそが大切なのです。
毎日の生活の中に、いつもイエス様を思い、イエス様の臨在(いつも私の傍に居られる事)を信じて毎日を生きるならば、悲しい時、困難に出会った時、一度立ち止まって、「こんな時、イエス様だったら、どうなさいますか。何とおっしゃいますか。」等と問いかけてみることも、大切なのではないでしょうか。また、「朝、起きる時の祈りは、たとえ一分であっても、その一日にとっては防腐剤のような働きをする」と聖パウロは言っています。イエス様に接している時、私たちは決して神に刃向かうことはありえません。
「イエス様の内にある」ということは、イエス様との絶えざる交わりにあるということなのです。一日たりともイエス様を忘れることのないように、毎日の生活の中で、祈りと瞑黙の時間を守り続けていくことに尽きるのです。イエス様は明確に言われています。
『あなたたちが私の掟を守るなら、 あなたたちは、わたしの愛のうちに留まることになる。わたしのうちに留まっていなければ、実を結ぶことはできない』と。

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